富良野GROUPの公演「走る」を見てきました。

富良野GROUPの公演「走る」を見てきました。

見たいと思った時には、東京公演のチケットが売り切れ状態。
それでも見たくて、東京から行けそうな範囲である静岡県富士市の公演のチケットをゲットし、当日は仕事を午後から休んで遠征。

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倉本聰の舞台は大学時代に何回も見ていて、「地球、光りなさい!」、「走る」、「谷は眠っていた」、「ニングル」、「屋根」、「悲別」と倉本聰の舞台の半分くらいは見ている。特に演劇鑑賞が趣味っていうわけでもないんだけど、大学時代のいろんなご縁があって、何度も見る機会をもらっていた。特に、「谷は眠っていた」は3回も見てる。だから、今回の「走る」が倉本聰の最終公演ということで、どこか寂しい気分になりつつも、それでも最終公演をちゃんと見ることができたのは嬉しく思う。

 

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さて、「走る」も大学時代に1度(たしか10年前)に見ていて、当時は当時で感動したのだが、今回改めて「走る」を見て、やっぱり心の底から感動した。
演者の持つパワーってすごいよな。たった1人の演技で何百人という人の心を打っている。公演開始10分くらいですでに涙ボロボロ、鼻水だらだら。人に見せられない姿だったと思う。会場が真っ暗でよかった(笑
覚えのあるセリフがあったり、ちょっとセリフが変わっている(気がした)部分もあり、本筋のストーリーは変わってなくても、少しずつ変わってはいるんだね。

ただ感動したで終わらせるのはもったいないので、「走る」が込めたメッセージはなんだったんだろうか、ちょっと考えてみたい。

人は、なぜ走っているんだろうか。
「走る」に登場するランナーは、細かな設定までは忘れてしまったけれど、いろんな事情を抱えて走っていた。
なぜ走っているのか、どこに向かって走っているのか、それぞれが悩みながら葛藤しながらそれでも走り続けている。
ヘロヘロになりながらも、怪我をしながらも、歩けばいいのに、止めればいいのに、なぜか走っている。
倉本聰は「走る」ことを人生の何かに掛けているんだと思うんだけど、人生において「走る」こと、また「歩く」こと、「走るのを止める」ことは、この作品において何を指しているんだろう。

生きるためだけなら走る必要はなくて、止まっていても生きることができる。
きっと、生きる以外で何かを掴むために走っているのだろう。

何かとは「夢」なのかなとも思ったんだけど、「走る」のランナーは全員が全員、明確な夢を持っていたわけじゃなかった気がする。「夢」は「何か」の一部分ではあることは間違いないと思う。ただ、「何か」の全てではないとも思う。でも結局「何か」という言葉にまとめられてしまうのかなぁとも思う。

「何か」が明確になっていれば、それは「夢」であって、それは追い求める対象となって走る目的になる。逆に、明確になっていないのであれば、それは「何か」の状態であり、それを明確にすることが目的となって、もがきながら「走る」ことになる。

「走る」目的は、「夢」を追い求めたり、「何か」を明確にするためになのだろうか。となると、「走るのを止める」状態とは、「夢」は決して掴めないし、「何か」は決して明確にはならない状態になる。それらに決して近づくことはないので、諦めの状態ということになるのかな。また「歩く」は「夢」や「何か」に近づいてはいるので、決して悪い状態ではないとは思う。しかし、人間の与えられた時間は有限なので、近付くスピードが遅くなる分、人生トータルで見たときに得られるものは少なくなってしまうだろう。

だとすると、「走る」ことは大事なんだけど、息切れして止まったり、歩いたりしないように、無理なく持続できるペースで走り続けるということが必要なのか。
確かに、「走る」のランナーの中でも、初めに飛ばして中盤でスピードが落ちていって、後続にどんどん抜かれて後悔していたランナーがいたな。(それは、これを比喩している?さすがに強引すぎるか。。。)

追い求める対象が「夢」であれ、明確になっていない「何か」であれ、大事なのはそれを追い求められる精神力と体力とひたむきさを持つこと、「夢」や「何か」を持ち続けること(なくならないこと)、そしてそれらを持続させることが大事なのかな。

「走る」の中では、レースが終わると、また次のレースが始まろうとする。ゴールの先には、また新たなコースがあってゴールがあって、その繰り返し。
それはつまり、新たな「夢」や「何か」という追い求める対象と、そこに至る道のりが、連続的にひたすらに繰り返されているということ。
「人生」とは、「夢」や「何か」を追い求めることの連続であるということか。

きっとそういうメッセージなのかな。
思ったことをつらつらと書いちゃったから、まとまりのない文章になっているな。。。ま、大事なのは自分自身への納得感。納得したからそれはそれでオッケー。

「走る」に込められたメッセージとは別に、自分にとって「人生を走る」とはどういう状態かは定義できるようにしておきたいな。今はまだできてないけど、定義できない以上は「走っている」とは自信を持って言えない気がするし、それはそれでもったいないと思う。

最後に、せっかくだから、倉本聰の言葉の中で印象に残っているメッセージを引用。富良野塾を卒業する塾生に送った言葉。とてもずっしりくる。

もし君たちが塾時代に持っていた夢を捨て、走らなくてもいい楽な夢を望むなら富良野のことはもう忘れなさい。
僕はそのことを軽蔑しようとは思わない。
しかし、どこにあっても“感動”ということだけは忘れないで欲しい。
感動を創る者は走らなければならず、感動を得るだけなら坐しても可能だ。
走るか、坐るか覚悟を決めなさい。
そしてもし君たちがある日突然、しばらく忘れていた感動を思い出し、胸の奥から涙が突き上げたら
いつでも富良野に帰っていらっしゃい。坐して見るものとはお茶でも飲もう。
走っているものとは酒を酌み交わそう。
俺たちはここにいて ずっと走っている。
── 行ってらっしゃい。

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本当に見れてよかった。

会場には倉本聰さんも来ていて、公演後の挨拶の時に舞台に登場してた。会場は割れんばかりの拍手でした。
最後、サインと握手をゲットしました♪

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