【読書ログ】日本人のための宗教原論
久々の読書ログ。
小室直樹著の「日本人のための宗教言論」という本を読んだ。
最近、宗教に対する知的好奇心が強まっている。というのは、海外旅行にいく中で、宗教を感じさせる場面に遭遇する機会が多く、その度に、自分は宗教に対してなんて無知なんだと感じてしまうからだ。
先日訪れたマカオでは、儒教の廟で熱心に手を合わせている若い人がいた。これまた先日訪れた台湾では、平日の夕方という時間帯にも関わらず、市民の方が廟でお経を読んでいた。そして確か、ペルーのクスコだったと思うのだが、教会を見学した際に、懺悔室で神父に罪の告白をしていた人がいた。
そういう光景が自分とって衝撃だったのだ。そういう人たちは、何を思ってそういうことをしているのだろうかと、ずっと疑問に思っていた。
で、読んでみて、やはり、今までの自分の宗教に対する無知を痛感させられると共に、そうなんだと思える箇所ばかりで、非常に勉強になった。読んだ感想として、自分がなるほどと思ったところをいくつかピックアップしたいと思う。
詳しくは、ぜひ読んでみてほしい。おすすめ。
ちなみに、小室直樹著で「日本人のための憲法原論」という本があるのだが、これは、自分が今まで読んだ本の中でトップ5には絶対に入るくらいに目からウロコだった本なので、こっちもおすすめ。
まずは、自分の思考の整理も兼ねて、読んだ範囲&まとめられる範囲で、各宗教の特徴をざっくりと整理してみる。今の所の自分の理解。(間違っているかも。)
当然、それぞれの宗教について、もっと細かく書かれてはいるんだけど、ブログにまとめるのは苦しいのでここら辺で。
・啓典(正典)
キリスト教の啓典が福音書(「新約聖書」の「マタイ」「マルコ」「ルタ」「ヨハネ」の4福音書)、イスラム教の啓典がコーラン、ユダヤ教の啓典がトーラ(「旧約聖書」の、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五巻)なのは知っていたけど、仏教と儒教に啓典がないのは知らなかった。仏教も儒教も教義は様々あるものの、すべての教義の根本となるものはないらしい。
・神
神について、イエスは「神の子」という表現がされるが、325年のニケア会議により決まった三位一体説により、父(神)と子(イエス)と精霊は同一体であるとされた。そのため、イエスも神である。アッラー、ヤハウェは流石に知ってる。
仏(釈迦)は神ではない。実はちゃんとは知らなかった。仏教における六道の世界には天の世界があり、そこには神様は住んでいるとされるが、神様も六道を輪廻転生する存在であり、イエス、アッラー、ヤハウェという神とは毛色が違う。
・救済の対象
救済の対象として、個人救済か集団救済かという考え方があるのは知らなかった。新たな発見。
啓典宗教かどうか、という宗教の観点の他に、集団救済か個人救済か、という分類もある。具体的な例をあげると、キリスト教、イスラム教、仏教は個人救済であり、ユダヤ教は啓典宗教でありながらも集団救済。儒教も集団救済の宗教である。「旧約聖書」では神が奇跡を起こして救うのは誰かというと、それはイスラエルの民、すなわちユダヤ民族全体であり、個々の人間を救うことはしない。それに対し、「新約聖書」では、イエスが手を差し伸べるのは、思い病などに苦しむここの人々である。
(P40)
・終末論
いわゆる最後の審判ってやつ。啓典のある宗教はいずれも終末論がある。神がこの世を創造したので(天地創造)、終わりもやってくるという考え。神が有罪無罪を言い渡すのはどれも同じ。仏教や儒教には天地創造という考えがないので、終末論という考えもない。
・天国/地獄
ここが一番驚きだったところ。天国地獄という考えはイスラム教にしかないというのはびっくり。キリスト教やユダヤ教にもあると思ってたし、仏教も、なんとなく、あるものだと思ってた。
イスラム教については全く知らなかったので、そもそもイスラム教に天国と地獄という考えがあること自体知らなかった。
正解は、天国と地獄があるのはイスラム教だけである。
(中略)
イスラム教(「コーラン」)を覗いていみると、最後の審判のとき、アッラーが裁判して「有罪」になったものは地獄行き、「無罪」となったものは緑園(天国。緑の園ともいう)へいく。
(P60)
これは正に、私が思っていた、天国と地獄の認識。ちなみに、イスラム教の地獄は、針の山とか血の池とかではなく、灼熱地獄だけだそうだ。生身の肉体を持って地獄へ行き、灼熱地獄に永遠に晒されるのがイスラム教の地獄。
キリスト教は最後の審判の日、生身のイエス・キリストが、元の姿を持って、この世に再臨する。そして、神の国が到来するので、その神の国に入れる人間と入れない人間とを識別する。ギルティを宣告された人は、神の国から追放され、永遠の死滅。永遠にいなくなってしまう。欧米人にとっては、これはとても恐ろしいことなのだ。それに対して、ノット・ギルティと言われた人は、神の国に入って永遠の生命を与えられる。
(P62)
今まで私が思っていたキリスト教の天国というのは、この世に到来する神の国のことであり、キリスト教の地獄というのは永遠の死ということだった。針の山や熱湯に潜らされるとか、業火に焼かれるという世界ではなかったのね。
仏教にもいわゆる地獄・極楽はない。
(中略)
人間界の上に天上というのを考えているわけだが、天上には天人、神という人々が住んでいる。彼らもまた輪廻の法則に支配されている。どういうことかというと、天人も生まれ変わるのである。地獄はあくまで六道の一つだから、イスラム教の地獄とは違い、永遠に落ちているわけではない。
(P64)
解脱して涅槃に行くまでは、すべての生命は六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻する。神といえどもその中に属している。これは知らなかった。よく、「地獄落ちる」というような言い方があるけど、仏教的にいうと、「地獄で生まれ変わる」が正しい表現なんだろうね。
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あとは、読んでて面白いと思ったところを列挙していく。
キリスト教においては永遠の死とは最大の罰であるのに対し、仏教においては永遠の死が最大の祝福の状態である。(P66)
キリスト教の最後の審判では、有罪とされれば、永遠の死が待っている。仏教において、六道(天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)から解脱して涅槃に入ると、六道のどこにも生まれ変わることはなく、どこにも存在しない状態になる。つまりは永遠の死。逆に罪が残っていると六道を彷徨い続け、ひたすら生まれ変わる。いってみれば永遠の生。
永遠の死がキリスト教では最大の罰とされているが、仏教では最大の祝福。逆に、永遠の生がキリスト教では最大の祝福とされているが、仏教では、罪が残っている状態とされている。この正反対の捉え方、とても面白い。
神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで、「主はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります。」といった。すると神はどう答えたか。「異民族は皆殺しにせよ」と、こういったのだ。神の命令は絶対である。絶対に正しい。となれば、異民族は皆殺しにしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。(P21)
キリスト教の「殺すなかれ」という戒律は、正確にいうと、キリスト教徒にだけ適用される。動物にも異教徒にも適用されない。このことはユダヤ教にも言える。(P180)
仏教には皆殺しの思想がない。ユダヤ教、キリスト教には、神との契約を破ったら皆殺しだという考え方がある。神との契約という発想のない仏教には、当然それがない。(P48)
「汝、隣人を愛せよ〜」なキリスト教が、なぜ十字軍のようなことをしたのか、また大航海時代に植民地化して現地人を虐殺したのか疑問だったけど、こういう理由だったのか。神との契約だったり、異民族は適用対象外だったから。都合のいいというか、恐ろしいというか。逆に神との契約という発想がない仏教で、異民族の虐殺みたいな過去ってあったんだろうか。
儒教の目的はなにか。答えは単純明快で、高級官僚を作るための教養を与える宗教である。そんな宗教があるのか、魂の救済はいかに求めるのか、そう問う人もあろうが、行動様式こそが宗教と考えれば、間違いなく宗教なのである。(P331)
儒教は、政治をよくして民を救うと言う集団救済の宗教である。病気を直すとか、長生きしたいとか、個人の救いなどにはなんの役にも立たない。そこで個人救済は道教が受け持った。(P335)
儒教って、上の表にもまとめたけど、啓典がなければ、神もなく、終末論もなければ、天国地獄という考えもない、かなり現実的な考えを持った宗教で、そもそもこれは宗教なのかという気もするのだが、人々の行動を支える思想であるならば、これも間違いなく宗教になるんだな。
マックス・ウェーバーはかくいった。宗教とは何か。それは「エトス」のことであると。エトスというのは簡単に訳すと「行動様式」。つまり行動のパターンである。人間の行動を意識的および無意識的に突き動かしているもの、それを行動様式と呼び、ドイツ語でエトスという。(P25)
宗教って、神とか何かよくわからないけど尊いものに対する信仰っていう認識を持っていたが、その認識は違うんだろうな。人間の行動を意識的、無意識的に突き動かすものであれば宗教になるので、それが啓典宗教のような神との契約やその戒律であったり、儒教のような教養であったり、その形式には寄らないんだろうな。
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宗教単体で理解するのも面白いと思うけど、宗教間で考え方を比較してみると、とても面白い。そういう考えで宗教というものを捉えたことがなく、それは新たな発見であった。
で、ふと思い返してみる。
廟で手を合わせている人、お経を読んでいる人、教会で懺悔をしている人がなにを思ってそういうことをしているのか、という疑問。
テクノロジーが発達して、超自然と思われていた現象も解明されつつあり、情報も簡単に手に入れられるこの時代、宗教の教えにあるような、終末論、現世来世の考え方、神との契約などを、心の底から信じている人は少ないと思う。そうした時に、なぜいまだに教会や廟などの宗教施設に行き、祈りを捧げるのか。
この本の言葉を借りるなら、それはアノミーが引き起こす「無規範」や「無秩序」な状態になるのが怖いから、だと思っている。
アノミーとは、この本では以下のように書かれている。
アノミーを一言で定義すれば、「無連帯」というのがその本質である。人と人とを結びつける連帯が失われ、人々は意図が切れたタコのようになり社会を彷徨う。孤独、不安、狂気、凶暴。気弱な人は死にたくなる、いや、死んでしまう。アノミーはどんな病気よりも恐ろしい。(P382)
アノミー状態になると人々の心が不安定になる。社会が乱れる。カルト宗教やテロリズムに流れる。そういう心の不安定を回避するため、心の安定を保つための手段として、みんなが持っている共通的な考え(宗教)を持つことで、連帯感を得て、アノミー状態を回避し、心の安定を図ろうとしているのではないだろうか。 もちろん信仰心というのもあるとは思う。
信仰心と心の安定、というのが疑問に対する今のところの回答だろうか。普通すぎるかもしれないが、海外で私が感じたことと、この本を読んだ結果として、今の私の感覚としては、素直にそのように思うのだ。
とはいえ、日本人は宗教音痴と呼ばれているので、そういう結論になっている時点で、まだ宗教音痴な考えなのかもしれないが。
宗教に対する知的好奇心はあるので、別な本を読んで考えを深めて行きたい。