僕が旅に出る理由

って何だろうとずっと考えていた。

私は、旅行をする時は基本的にはいつも一人旅だ。だが職場や友人の話を聞く限り、一人旅をしている人はほとんどいない。旅行先でも一人旅をしている人はほとんど見かけない。大抵、家族や友人と一緒という人がほとんどだ。

その度に思う。自分はなぜ旅に出ているんだろう、なぜ一人旅をしているんだろう、旅に何を求めているんだろう、と。

旅に出るたびに、頭の中でその問いが浮かんで来て、ずっと答えが出てままだった。

「好きだから」というのは間違い無い。ただ、それは事実ではあるが答えではない。もっと深いところからくる理由があるはずで、それはなんだろうと、ずっと思っていたんだ。

それが、モンゴルに行った時に、ふと答えが見えた気がして、それをここに書いておく。

あえて言葉にするなら、「非日常という空間の中で、世界の美しさに触れて、心の底から震えがくるような感動をしたいから」だろうか。

僕は、世界は神秘的で美しいものだと思っているし、そうだと信じている。

僕はこの記事を書いている時点で15カ国ほど巡っている。行った国の数としては少ないし、滞在した日数を数えても本当にわずかなものだと思う。

それでも、行った先で心の底から震えがくるほどの感動を思えたことは沢山あるし、その度に世界は神秘的で美しいと感じさせられるのだ。

カナダで見たオーロラ、カンボジアのプリアヴィヘア、クスコのカテドラル、オーストラリアのエアーズロック、などなど、挙げればキリがない。自然、遺跡、異文化、宗教、全てが自分の理解の外にある世界で、それは神秘的で美しい。

そして、これまでの人生を思い返して見ても、心の底から震え上がるほどの感動というのは、それを「知った」瞬間ではなくて、それに「触れた」瞬間なのだ。それを知識として「知る」だけでは足りなくて、五感を使って感じないと得られないものだと思うのだ。

知識はその人の世界を広げ、その人の可能性を広げてくれる。しかし、知識だけで得られる世界というのは、その物事の表層だけでしかない。

世界はもっと深いのだ。神秘や美しさというのは、その深いところに隠れている。その深いところに触れるには、実際に経験しないといけないのだ。

私は、その深いところにある、神秘や美しさに触れたいのだ。そしてそれに触れることで感じることができる、心の底から震えがくるような感動に浸りたいのだ。

そして、それは「非日常」という時間の中で得られるものであるとも思う。

日常は日々やることが決まっていてルーティーンな時間だ。基本的に自分の持っている世界の範囲でしか行動しないし、ましてや、自分の全く知らない世界の深さに触れるなんてのは、まず無理な話ではないだろうか。

私の考える「非日常」とは、日常の中で身にまとっているステータスやしがらみから解放される時間や場所のことだ。どこ出身の自分、何の会社に勤めていて、どんな立場の自分、どんなコミュニティーに属し、どんな交友関係を持っているか、そう行ったつながりから時間的空間的に解放される場所、それが非日常だ。

それらを纏っている状態では、自分の思考や行動が無意識のうちに制限されてしまうと思う。私も日常では、常に仕事のことが頭の片隅にあって、それを前提とした思考や行動をしていると思う。海外から日本に戻って来て、帰宅の途につく電車の中でさえも、すでに仕事のことが頭の中に入り込んでくる始末だ。

日常で身にまとっているステータスやしがらみがない非日常の空間で、自分の感性をフル稼働にして、一人の人間として物事に向かい合ってこそ、普段は感じ取ることができない、特別な深いものに触れられると思うのだ。

私はそう思うのだ。

それが今の僕が旅に出る理由なのだろう。

そしてそれは自分の人生の軸でもあるのだろう。「非日常の時間を大事にすること」それが軸だ。

「非日常」はLIFT SHIFTでいう「エクスプローラー」の期間に当たる気もしている。自分の感覚としてはそれに近い。 

「非日常の時間を大事にする」ということは、日常に押しつぶされないということ。つまり、仕事に忙殺されるとか、仕事一筋というのは自分の価値観には当てはまらないし、僕の生きる道ではないのだろう。

確かに、私は会社で出世するとか、責任感のある仕事をするという理由ではモチベーションを保てない人間なので、そういう性質からしても、この考えはあっていると思う。

ただし、「非日常の時間を大事にする」ということは、「日常をないがしろにする」ということではない。日常の時間も大事で、後悔しないように全力で挑むのは変わらない。日常の時間を大事にできない人が、非日常の時間を活かせるわけがない。

非日常を大事にするということは、つまり日常の時間も大事にするということだ。

ここまでは、僕が旅に出る理由であり、かつ、自分の人生の軸でもある。

もしかしたら、今後、この考えは変わるかもしれない。

「非日常」の空間の中で、新たな気づきの中で、考えが変わるかもしれない。その時はまたここに残すことにしよう。考えが変わるようなら、それはそれで楽しみだ。