遠い日の記憶
ふと理由もなく、小さい頃の記憶がフラッシュバックすることがある。
先日、本当になんの前触れもなく、遠い日の記憶が蘇ってきた。なんでだかわからない。だけど本当に突然頭の中に降ってきて、とても懐かしい気分になった。
いつの頃だろう。おそらく3歳か4歳くらいの頃だ。祖母の家の前の通りをアンパンマンカーに乗って遊んでいた頃の記憶。
祖母はまだ健在だけど、祖母の家はすでにない。
祖父が亡くなってからは祖母はその家にずっと一人で住んでいた。祖母の住んでいた所は地方の田舎街で、祖母の子供(つまり私のおじやおばに当たる人)はみんな都市部に出てしまっている。私の親もそうだ。
祖母の家までは車で4時間近くかかる。昔は今ほどに高速道路が整備されてなかったので、6時間以上かかっていたはずだ。祖母が高齢になるにつれて、一人で住み続けるには心配ということで、家を引き払って、今は私の実家で両親と暮らしている。
家を引き払う前に、墓参りを兼ねて祖母の家に行き、色々写真を撮っていたのを思い出した。写真を見返してみる。
子供の頃から変わらない景色が写真の中に広がっている。この感情はなんだろうか、懐かしさと言うのか、ノルタルジックと言うのか。ともかく、写真を見ていると急激に祖母の家が恋しくなってくる。
小学校に入ったくらいからは年に1回、お盆の時に行くという感じ。
頻度は少なかったけれど、小さい頃から毎年ずっと通っていた家なだけに、いろんな思い出が染み付いている。
幼いいとこをあやした記憶、一緒にファミコンをした記憶、押入れの中で布団にくるまって遊んだ記憶、近くの商店にカプリコを買いに行った記憶、懐かしい。
社会人になるまでは、年に1回というペースは守れていた。社会人になって上京してからは、数年に1度になってしまった。
年が経つにつれて、私は大人になり、確実に時間は流れているんだけど、祖母の家は、そこだけ時間が止まっているかのようで、何も変わっていない。そのせいか、祖母の家に行く度に、子供の頃の記憶が鮮やかに蘇ってきたのを覚えている。
子供の頃の遊び道具がそのまま押し入れに仕舞われていて、本当に懐かしい思いになる。そして外を歩けば歩いたで、小さい頃にその通りを歩いたことが思い出されてくる。
小学生の頃、この記念碑のある広場の前でラジオ体操をやったな。もう25年以上も前の出来事になるのか。
この街にまた行くことがあるんだろうか。海沿いにある、漁業と農業が中心産業のこの街に。
親戚はほとんどいないし、行く理由がなくなってしまっているな。行くとしたら墓参りくらいか。東京からだと行くのが大変だな。
変わらないものはないと思いつつ、変わってほしくないものもやっぱりある。
変わって欲しくないものがなくなるのは、非常に寂しいし、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちになる。その記憶がフラッシュバックする度に、都度その想いに駆られるんだろうな。
これらの写真は4年前に撮った写真だ。確かこの翌年に家を引き払ったんだっけか。もうこの家に来るのは最後かもと思って、家や家の周囲の写真をいろいろ撮ってたんだっけ。
小さい頃はただ散歩するだけってつまらないと思ってた。大人になると、それはそれでいいものだって思えてくる。思い出のある風景の中を散歩するって言うのは、得も言われぬ心地よい気持ちになる。
最後かもと思っていろいろ撮ってたけど、結局、これが本当に最後になった。
それ以降、祖母の家には行っていない。家自体はあることにはあるが、私の知らない遠縁の親戚が住んでいる。おそらく、もう行くことはないだろう。
この気持ち、なんて表現すればいいんだろう。自分の表現力の無さを情けなく思ってしまう。もう少し時間が経った後でもいいから、この気持ちを表現できるぴったりの言葉を見つけたい。
とにかく、写真、残しておいて良かった。
こういうの大事だ。
そんな記憶。